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2021年04月15日

●自然(じねん)の行

当時、学校に勤めさせて頂いていた23才頃のことです。

★私が片側一車線の道を運転中に、渋滞して全く動かなくなり停滞しておりました。すると、反対車線の車が私の車だけに接触し、車体の右前から後まで側面を擦って停車したのです。相手の方が降りて来られないので、車を路肩に止めて行きますと、そのお方は放心状態でした。こちらから話しかけますと、そのお方は「申し訳ありません。居眠り運転をしていました。すべて私が悪いですので弁償させて頂きます。」とのことです。「それでしたら修理の見積もりができましたら、また連絡させて頂きます。」とお話しして、免許や車検証の控えを取って名刺を頂き帰宅させて頂きました。

★三代教会長先生にご報告させて頂きますと、「あなたが全額を払ったらよろしい。」と仰っしゃいますので、私は「相手のお方が加害者で、全額弁償するとのことです。」と申し上げると、重ねて「あなたが支払ったらよろしい。」と仰っしゃいました。「はい、そのようにさせて頂きます。」とすぐに返事が出来なかった私は、数秒考えました。考えてみれば、居眠り運転ですから、車の列のどこへ当たっても仕方のない状態の中、たまたま私の車に当たったという事は、神様からお気付けを頂いたという事です。

★そして頂いたみ教えを守り、相手の方に伝えて喜んで頂き、私は日々の生活を改めさせて頂く良い機会を神様から頂いたのだと思い、車を修理に出させて頂いた事でした。後に私は何度も、命のないところを危険から逃れさせて頂いて、助けて頂いたのです。

★「自然(じねん)の行」という言葉がありますが、自ら断食をしたり、水垢離をとったりする修行ではなく、文字通り、自然に起きてくることが、神様がさせなさる御修行なのです。自分自身に、至らないところがまだ多くありますから、神様が出来事を通して改まる点を気付かせて下さるのです。改まりに気付くという事がおかげですね。ですから、起きてきたことに心を乱すことなく、自分の為すべきご修行として、有り難く取り組ませて頂いて、おかげを蒙らせて頂きましょう。

★近藤藤守師が、山に入って修行したいことをお届けされ、『なるべく深い山に入って浮世を逃れるつもりでおります』と申し上げられますと、教祖様は、近藤藤守師に『それは結構である。しかし近藤さん、何もわざわざそんな不自由な山に行かなくても、心の中に山をこしらえて、その中で修行をしたらそれでよい。自分が山に入った心になっていれば、どんな不自由なことがあっても、また家内のこしらえたものがまずくても、けっして不足を言うことはないであろう。』 と仰せになられたということです。
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2021年04月14日

●受け物を大きくさせて頂く

『天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ』

★神様は天地の間に住む人間は神の氏子と仰って下さり、全ての人が助かることを願って下さっています。そして皆に平等におかげを授けて下さっているのですから、受け物の大きい人は、それだけ多くおかげを受けさせて頂くことが出来るということになります。受け物の小さい人が、多くのものを入れてほしいと思っても多くは入りません。ですから、大きな受け物にならせて頂けるように、お願いをさせて頂くことを教えて頂いているわけです。

★『神様のお徳を身いっぱいに受けさせて頂けるように、この身この心を神に向けて信心せよ』と仰って頂いております。有難いことに、神様に心が向かわせて頂いております時はご信心になっておりますが、反対に人や出来事に心が向かいますと、ご信心になっていないということです。それは、つい自分中心に物事を考えてしまうということですね。自分中心に考え、我情我欲が先に立ってしまっているような状態でありましたら、神様のお徳は十分に頂くことは出来得ません。

★毎日の生活の中で、み教えを常平生から頂く稽古をさせて頂いておりますが、どのように実践させて頂くかということが大切です。み教えを頂きながらも、なかなか実践が出来ていないということが多くあります。それは稽古が足りないのです。何事も反復練習をさせて頂くことが、上達する元となり、私達の毎日の生活は、小さい頃からの反復練習の賜物です。神様が感心なさるくらいに、根気強く練習させて頂けばよろしいのですが、なかなかそういうことにはなっていませんね。見直しをさせて頂きますと、もっともっと稽古をしていかなければならない部分があるはずです。生涯かけて、その稽古をさせて頂き、共々におかげを蒙らせて頂きましょう。

★『何事にも無理をするな。我を出すな。わが計らいを去って神任せにせよ。天地の心になっておかげを受けよ』

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2021年04月13日

●おかげの受け物を作る謙虚な姿勢

 以前、金光英子先生からお聴きしたご内容ですが、金光図書館が合言葉とされていることに、【3つのことは言いません】というものがあられるそうです。その3つとは「ありません」「出来ません」「知りません・分かりません」のことだそうです。その3つを言わないように心掛けておられるということです。

★利用者の方が探している資料が、金光図書館にない時には、「ありません」と言わずに、「お探ししましょう。作りましょう。」と提案されるそうです。例えば、視覚障害のある方が求めておられる本に、点字のものがない時には、「作りましょう」ということで、時間や手間を惜しまずに、点字の本を作るよう努力なさるそうです。また、「出来ません」と言わずに「ここまではさせて頂きます。あとはどうすればよろしいでしょうか?」と尋ねられるということです。

また、図書館の職員の方々がご存知ない資料に関しての質問には、「知りません、分かりません」と言わずに、「教えて下さい。聞かせてください。」とお伺いなさり、少しでも利用者の方のお役に立つことを願われ、さらに幅広くお役に立たれるためのきっかけとなさっておられるそうです。実に謙虚であられ、信心のお手本とさせて頂きたい有難いご内容を聴かせて頂いたことでした。

★5月11日の御大祭に向けて、一層心を込めて日参と聴教に励ませて頂き、また、御礼の御用にお使い頂きまして、神様のおかげを十分に頂く妨げとなってしまう、我情我欲、不成心をお取り払い頂いて、心と体におかげの受け物をしっかり作らせて頂きたいと思います。

★『座敷、押入れ、板の間に塵が積もるように、人間は我欲のために我が心に塵が積もる。我が心我が身に汚れないように心と体の掃除をするつもりで今月今日で信心をせよ。』 
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2021年04月12日

●受けたおかげを忘れず・・・

 荻原須喜師は、20才の頃に2年間血の道の病にて、病床に呻吟しておられました。

★ご主人の豊松さんが参詣され、日本国中のあらゆる神仏を拝んできたことをお話しになりますと、教祖様は、『それは、あまりの信心である。』と仰せになられたのです。そして、『巳の年(豊松)、昔から神信心しておかげを受けるのには、一心ということを言おうがな。一心に信心すりゃ、おかげが受けられるのじゃ。(中略)たとえて言えば、女でも、いよいよ一心を打ちこむ男は一人しかない。この男こそと思うたら、心の底から一心を出して、身も心も打ちこんでしまうのでなけりゃ、まことの恋ではない。(中略)神信心もこの一心というものを出すと、すぐおかげをいただける。(中略)どこでもよいから一心に信心せよと言うのであるぞ』と仰せになりました。

★更に、まだ一度もお会いになったことのない須喜さんに対して『丑の年(荻原須喜)はまことに執念な者で、常に不足ばかり並べておるが、不足にはおかげはない。(中略)それじゃから、病気もしておるのじゃ。ようもならぬのじゃ。(中略)なるほど私は悪かったということが腹の底から得心がいったら、家内中相談のうえで好きな所へ信心せよ。きっとおかげが受けられるからのう。もし丑の年(荻原須喜)にその得心がいって、相談のうえで、ここでおかげを受けるということなら、もう一ぺん参りなさい』と家族で相談して、おすがりするところを「この神様」と決めて、一心に信心するよう、み教え下さったのでした。そして、須喜師が日頃不足ばかり言っていたことを、「ああも言ったであろう」「こうも言ったであろう」と、何十となく言い表され、不足心とわがままから病気になっていることと、不足心を取り除くように教えて下さったのでした。

★早速、豊松さんは帰ってから、須喜師の枕元で一部始終を話されました。すると、須喜師は「わたしはわがままで、不平不足より他にありませんでした。改心せんでどうしましょうか・・・」と改まりが決意できられ、金光様の元で信心して、おかげを頂くことを決心されました。再び豊松さんが参詣されますと、金光様より「三週間を楽しみにおかげを頂くように」とみ教えを下さいました。そこで、日夜ご信心を進められますと、16日目に初めて枕から頭が上がり、21日目には2年前と変わらない壮健な身体になられたのでした。

★そして、15qの道を歩いて参拝が出来、御礼を涙ながらに申し上げた時に、金光様から『今まで長う痛うてつらかったことと、今おかげを受けてありがたいことと、その二つを忘れなよう。その二つを忘れさえせにゃ、その方の病気は二度と起こらぬぞよう。ここからのう、人が痛いと言うて来たら、自分のつらかった時のことと、おかげを受けてありがたい時のことを思い出して、神に頼んでやれ。われはもう治ったから人のことは知らんというような心を出すと、またこの病気が起こるぞ。今の心でのう、おかげを受けていけば、病気が起こらぬばかりじゃない。子孫の末までおかげを受けられるぞ』とみ教えを頂かれたのでした。それから、須喜師はお道の御用に立たれ、難儀な方々をお導きなさっていかれたのです。

★私達は日々み教えを頂いて改まり、おかげを頂きましたら、その有難いことを忘れないで、次々と周囲の人々が助かっていくように、親切丁寧にお導きさせて頂き、真の信心に進んで頂く方々が増えていかれる事が、神様への一番の御礼になるのですね。

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2021年04月11日

●霊様の働きは永遠である

三代教会長先生は御生前中、御用のご都合の付かれる限り、阿倍野の大阪市南霊園の奥城に参拝なさっておられました。阿倍野教会の奥城を拝まれ、伊藤家の奥城を拝まれ、親教会を始めご縁につながるお教会の奥城を丁寧に拝んでおられたのです。ある時、偶然に戦友(桂岡正三命霊神)のお墓を見つけられたのです。桂岡正三氏は同じように訓練を受け、満州・中支へと戦場に出征なさった後、フィリピン・パターン半島で戦死なさったのでした。それ以降、三代教会長先生は、その方のお墓も常に拝んでおられたのでした。

★すると、ある日突然、その方のご遺族から教会に「伊藤良三先生に祭主におつき頂いて、墓前で50年祭を仕えて頂けますでしょうか?」とお電話があったのです。どのような事情かは分かりませんが、わざわざ阿倍野教会にお願いしてこられたのでした。三代教会長先生の真心からのお祈りが霊様に届き、霊様がご遺族に働きかけられたのでしょう。それから、お祭りをお仕え頂かれ、阿倍野教会の霊舎にもお鎮まりになっておられるのです。

★霊様の働きは、生き死にを通して永遠に続くものです。亡くなられた霊様も、「天地の間に生き生きと働かせて頂きたい…」と願っておられるのです。そうした霊様方が次々と助かり、おかげを頂かれる道を歩まれるようにお願いさせて頂けるのが、このお道のご信心です。自分のことよりも先に、悩み苦しんでおられる霊様の助かりを願わせて頂くのです。生き死にを通して、天地の親神様の御神徳を蒙らせて頂くことが出来る世界を、金光様は開いて下さったのです。また、現在、生かして頂いている私達も助かることが出来るということは、実に有難いことです。

★『先の世までも持ってゆかれ子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない』
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2021年04月10日

●真の種を蒔く

 伊藤ハル刀自が、群馬県まで大正11年当時にお話しに行かれたことを、蒲田氏から詳しく聞かせて頂きましたが、蒲田家も群馬県や栃木県からも御大祭の折には阿倍野教会まで参拝され、真心からご信心を進められました。

★阿倍野教会では、ご信者がお宅祭をお仕えなさる時には、ご信者と事前から打ち合わせ等をさせて頂き、準備をさせて頂きます。特に、ご信者が初めてお宅祭をお仕えなさる時には、初代教会長先生のご時代から準備に出向かれ、御神前のお掃除、お供え物のしつらえ等も一緒にさせて頂かれました。その様にさせて頂いておりますと、段々と、ご信者だけでお祭の準備が行き届いてさせて頂けるようになられ、より一層真心のこもった、有難いお宅祭をお仕え出来るようになっていかれます。

★遠方に転宅なさったご信者のお宅へでも、教会から車で、あるいは、必要であれば新幹線や飛行機を利用して出向かせて頂き、お宅祭をお仕えさせて頂きます。二代教会長先生・三代教会長先生も、そのように遠方のご信者のお宅へ出向かれ、家族親族・お導きの方々と共にお宅祭をお仕えになられました。そのような有難い歴史の中で、ご信者の方々が真心を込めてお礼参りをさせて頂かれ、御大祭を初めとする御祭典にも、全国遠方各地からも真心込めて参拝なさっておられますことは、真に有難いことと思わせて頂きます。

★今日のコロナ禍では、人と人との接触を出来るだけ少なくし、一刻も早く感染が収束することを皆が願い、それぞれの所で日々取り組んでおられることと思います。そうした中で、どのようにして神様に対して、あるいは人に対して、真心を向けさせて頂き、真心を現わしていくかが、良い関係を築く上でとても大切になってくると思います。

★5月11日にお仕えさせて頂く天地金乃神様の御大祭に向けて、それぞれに御礼の真心を神様に向けさせて頂いて、有難い御大祭のご庇礼を蒙らますよう願わせて頂いております。『世に一粒万倍ということがあるが、その一粒万倍は、蒔いて生ずるのか、蒔かずに生ずるのか。蒔かずに生えたものには確かなものはない。また、種を蒔かずに収穫のできることはない。信心も真という種を蒔けば、神さまから万倍にして戻してくださる。』(金光四神様のみ教え)

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2021年04月09日

●常平生から手厚く信心をする

昨日は、みかげ会例会が開催され、蒲田氏より大変有難いおかげ話を聴かせて頂きました。

★お祖父様が、神戸で貿易商をしておられましたが、倒産し阿倍野区吉野通りへ引っ越してこられました。そこで、お祖父様とお祖母様とお母様が、伊藤ハル刀自(伊藤コウ師の御母堂)からお導きをして頂かれたのが、蒲田家の入信の始まりです。大正11年頃、伊藤ハル刀自とお祖母様が、お祖父様の実家である群馬県太田市へ行かれ、近所の人に集まって頂いて、伊藤ハル刀自が金光教のお話をなさりました。その場所が全性寺というお寺の本堂であったということでした。群馬県太田市へ行かれるだけでも、片道一日以上はかかる程の遠方であったにも関わらず、お話にいかれたということからも、お道の有難さを伝えて頂こうとなさるその熱意の程が分からせて頂きます。

★妹さんが三歳の時、お母様が近所の人に田植えを頼まれて手伝いに行かれ、蒲田氏と妹さんは、お母様が仕事をされている近くの小川の橋の上で遊んでおられました。お母様が休憩中にその橋に来られたときに、妹さんがバランスを崩され、増水した川の中に転落してしまわれたのです。それを見られたお母様が、すかさず「金光様!」と叫ばれ、川の中に飛び込んで行かれたところ、ちょうど妹さんの首が右手に触り、掴んで引き上げ、無事に助けることが出来られたのでした。お母様はよく、[何をするにも「金光様」と言ってしなさい]と子供達に教えられていたということです。後にお母様は、近所の人に金光教の信心の有難さを話されるようになられたそうです。

★信心の始めである、お祖父様、お祖母様、お母様の熱心な信心を受け継がれ、ご家族中が有難いおかげを頂き続けておられます。私達も信心に励み、めぐりをお取り払い頂き、お徳を積む生き方をさせて頂いて、結構に子孫が続いておかげを頂いていくように願わせて頂きたいと思います。

★『病気災難があったからと言うて、にわかに信心を始めるよりは、常平生から手厚く信心をしておれ。手厚い信者であれば神から心配してやる。いかに大病とか九死とかいう病難でも峠をこえさせて全快させてやる。とかく信心の地を肥やしておけよ。』
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2021年04月08日

●御大祭を機に改まったご信心を

 昨日は、御本部の天地金乃神大祭に、二名が代表参拝させて頂きました。御大祭は、各家庭が入信の以前から入信の後、そして今日まで、どのようにおかげを頂いてきたかを振り返らせて頂いて、お礼を申させて頂く大切なご祭典です。

★私達は、初心を忘れていないでしょうか?初心とは素直さ・謙虚さ・熱烈さ・純真さ等々、そうした大切なものです。穢れや混じりのない無垢な心というのは、なかなか保ち難いものですね。「お礼の心に満ち満ちて」「喜びに満ち満ちて」という言い方をさせて頂きますが、一瞬はそのようになれても、その後すぐに心が変わってしまうことはよくあります。常に変わらないように、心のおかげを頂いていくことは、簡単ではありません。「有難いの一心」にならせて頂けるよう、毎日が和らぎ喜ぶ心にならせて頂けるよう、稽古を続けさせて頂くことが、私達の日々のご修行です。

★健康な状態にならせて頂くには、そのおかげを頂く基がありますね。お礼を申すべきところに、お礼が申せていないという生活を改めることで、おかげを頂く生活になっていきます。結構な生活が続かないということは、どこかに積もり積もったご無礼があるはずです。それが体に現れて、仕事に現れて、生活に現れるのです。これまでのお礼をしっかりと申し上げることが出来るように、良い機会を神様が与えて下さっているのです。その機会を与えて頂いていることを喜んで「考え直しをし、改まる機会を与えて頂いて有難うございます」とお礼を申し上げる心にならせて頂くと、次の段階へ進ませて頂けます。改まりが出来ていくからこそ、一段一段信心が向上していくのです。

★福田美亮師がみ教え下さっていますように、御大祭を機に、自身の生活が不足がちになっていないだろうか?と自分自身に問いかけ、自分の過ちに気が付かせて頂いて「こんなことでは相済まん。申し訳ございません」と心を改めることが改まりの信心です。目の前に神様から突き付けて頂いている信心の課題は「おかげにさせて頂けよ」と与えて頂いているのですから、改まった心持ちでご信心をさせて頂きましたら、改まったおかげが頂けるのです。

★御大祭を機に、一層改まっておかげを蒙らせて頂こうという心が、有難い御比礼を頂いていく元になっていくのです。

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2021年04月07日

●疑う心を取り除く

あるご信者が、会社に入社して5年の御礼の宅祭を、お仕えになられたことがありました。家族中が終始涙を流しておられたのは「ありがた涙」でした。

★なぜなら、アルコール依存症で働くことも出来ず、入退院を繰り返しておられたご主人が、神様にお縋りして依存症全快のおかげを頂かれたからです。

★ご主人は、伊藤コウ師より『あなたは、一番給料の低く、また、家から遠い所へお勤めに行きなさい。』とみ教えを頂かれました。お酒を好きなだけ飲むためのお金と時間がないように、環境を整えることを教えて下さったのです。それから、「今日も一日、しっかりと働かせて頂けますように!今までのご無礼はお許し下さい。酒一滴も口にせず、どんな誘惑にも打ち克つことが出来ますように!」とお願いして一日が始まり、「今日も一日、しっかりと働かせて頂きました。有難うございました。」と御礼を申して帰られる生活が始まりました。お酒を飲むと、数日でも家に帰って来なかったご主人が、本気で変わるようお願いなさり、朝早く朝食を終えられて、朝参りしてから直接会社へ出勤され、帰りに教会へ参拝なさってから、自宅へ帰られる。寄り道もしないように毎日の生活が変わられたのです。そして仕事において異例の出世のおかげを頂いてゆかれたのでした。面倒な事や利益の薄いこと、人の嫌がることような難しい仕事を、自分が進んでさせて頂きますと、そのご修行により自身を鍛え頂き、変わらせて頂くおかげが頂けるのですね。

★お広前は、有り難いご神徳に満ち満ちており、日々心を改め磨いてゆくことを願わせて頂き、参拝させて頂きますと、結構に心を浄化して頂けます。私たちは生まれてくる時に、神様から尊い御分霊を授けて頂いておりますが、油断しておりますと、それを覆い隠すように不成心が沸き起こってくるのです。

★それは、次のようなことです。
○貪(欲深く自分に取り込もうとする心。)
○瞋(怒りは自分の身も心も、周囲の人の身も心も害してしまう。)
○痴(非理性的なこと。愚痴不足を言うこと)
○慢(横着、気まま我がまま)
○疑(疑いの心)
心のご修行とは、わが心を汚す諸々のことを一つ一つ取り除かせて頂くことです。

★『世の中で疑いが一番悪い。神に任して、一心に信心をせよ。任したうえは、神がよきようにしてやるのぞ。疑いを放れるの一つで、おかげをいただくのである』

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2021年04月06日

●ものの命をどこまでも大切に

 私が高校生の頃、三代教会長先生より「この革靴は、ご信者さんが真心込めてお供えなさったものですから使わせて頂きなさい。私には小さいので履けないから、あなたが履かせて頂きなさい。」と仰って頂きました。

★そこで、早速その靴を履かせて頂きますと、私には随分大きいもので、指を何本か入れてもまだ余る状態でした。三代教会長先生に「これは私には大きいのですが・・・」と申しますと、「大きいなら履けるでしょう。靴の先に脱脂綿を詰めて履かせて頂きなさい。私も中学生の時にそのようにしたから・・・。」と仰って頂きました。仰る通り脱脂綿を入れさせて頂いたのですが、靴を脱ぐ度にその脱脂綿が靴下に付いてどうしようもありません。そこで、何とか工夫してその靴を履かせて頂けるよう、中敷きをいくつか敷いて履かせて頂きました。

★何年も履かせて頂いているうちに、靴の底がすり減ったり、革が破れかけたりしたのですが、その度に当時晴明通りにあった靴の修理屋さんに持って行き、何度も修理して頂きました。その修理屋の方が「これだけ修理されるなら、新しいものに買い替えられたらどうですか。」と言われるほどに長く大切に履かせて頂きました。高校生から履かせて頂いて、大学生・社会人と、大切に履かせて頂くことが出来たのでした。そのことで分相応を教えて頂き、無駄のないようにさせて頂くことが、心豊かな生活をさせて頂く元である事を教えて頂いたのでした。

★全てのものには命があります。物を大切にさせて頂くということは、その物の命を大切にすることであり、その物に関わる人の働き、思いを大切にするということにもつながります。そのような生き方が身に付かせて頂きますと、心が豊かになることは勿論のこと、神徳人徳を頂いて、物質的にも豊かなおかげを頂くことにつながるのです。

★『昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別物ぞ。』

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2021年04月05日

●神様にお喜び下さる願いを立てる

阿倍野教会が吉野通りに布教の初めの頃のことです。ご近所のある方が初めて参拝された時、初代教会長伊藤徳次師と二代教会長コウ師がお留守で、お広前にはコウ師のご母堂であるハル氏が座っておられました。その方は「この神様は、何でも願えば聞いて下さると聞いたので、参拝しました。今、わが家に身よりのない居候が住み着いています。腎臓病や肝臓病などの病気をして、体は浮腫で腫れ上がってしまい、現在は危篤状態に陥り、医師も見離してしまいました。いつ死ぬか、いつ死ぬかと毎日待っていますが、なかなか死にません。この厄介者が早く死にますように、神様にお願いしてください。」と話されたのでした。

★ハル氏は[この金光様のご信心は、そのようなお願いは致しません。お断り致します。「どうぞ、生かして下さい」というお願いならば、お取次ぎさせて頂きます。よく考えてみなさい。今、あなたは死にたいですか?大病をしたとしても、何が何でも生きたいと願うでしょう。それは、生命を与えて下さり、生かして下さろうとなさる天地金乃神様の御心です。「どうあっても生かしてやりたい」と思って下さる神様に対して、「死なせて下さい」というお願いは親不孝になりますから、そのようなお願いは出来ないのです。]とご教導なさったのです。

★それを聞かれたその方は、自分の過ちに気付かせて頂かれ、[私は考え違いをしておりました。申し訳ありませんでした。それではお願いを変えさせて頂きます。「どうぞあの方の病気が早く治られて、一日でも長生きして頂けますように」というお願いでしたら聞いて頂けますか?]とお尋ねになりました。ハル氏は「喜んでさせて頂きましょう。3日間の日を切ってお願いさせて頂きましょう。」と仰いました。

★すると、居候の病人のお方は、3日目に全身の浮腫が引くおかげを頂かれ、何も食べられなかったところが、おこわ(餅米)を食べさせて頂けるようになり、お世話になった人に対して「この御恩は忘れません!」と大変喜んで御礼を申されました。そうして色々と食物を頂けるようにまで回復され、後に、眠るが如く息を引き取られたのでした。お世話なさった方も、熱心に信心されるようになられ、正しいお願いがさせて頂かれるようになられたのでした。

★後に、コウ師は「私たちの教導が至らないために、ご布教がまだまだ行き届いていない時には、こんな間違えたお願いをする人がご近所におられました。これは、私たちの教導が至らない、そしてお導きが足りない結果です。もっと早くこのお道が伝わり、ご近所の方々が正しいお願いをされ、正しく信心をされて地域・社会が助かり、立ち行かれますように御用させて頂きたいと思わせて頂きます。」と仰せになり、願われたのです。神様にお喜び下さる願いを立てさせて頂き、神様のお心に適う生き方をさせて頂ける方が、次々と増えてゆかれますように、お導きの御用にお使い頂きましょう。
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2021年04月04日

●信心の日を絶やさぬように次々と伝えてゆく

『水は方円の器に従い、人は善悪の友によるというが、家庭は器のようなものである。水は円い物に入れれば円に見え、角の物に入れれば角に見える。家内中が真の心を持ち、神様の氏子をお預かりしておるという尊き心持ちで家業を潔く働き、親兄弟に親切をして信心に油断なく、教育に油断がなければ、先祖へご無礼なく、国家繁盛のもととなるから、日々家業を働く心と真心とを失わぬよう、今月今日で信心するがよろしい』

★2日には、月例祭に併せて勧学祭を無事仕えさせて頂きました。私達は微力でありますから、一人で何が出来るというわけではありません。しかし一人一人が願いをもって取り組ませて頂くことによって、世の中全体に波及していって、良い方へ変えていく大きな力にしていくことは出来るのです。私達は世の中を良い方へ変えていく大きな働きが出来るのです。

★微力ではありますが、無力ではありません。微力は有力であり、集まりましたら大きな力となっていきます。これから未来の社会を担って行かれる方々が、どのように興味を持って勉強され、さらに求めて研究をなさり、どのように世の中のお役に立たせて頂かれるかを楽しみにお願いさせて頂きたいと思います。世の中が良い方へ変わっていきますようにと、同じ方向へ願わせて頂く方々が増えていきましたら、どれ程有難いことであるかと思わせて頂きました。

★人は育つ環境や、周囲の方々によって、影響を受けて人格が形成されます。私達がご信心を基にして、自分自身を育てさせて頂き、それに続く人を育てさせて頂くことが大切なことです。人が育つということは力を必要としますし、時間がかかります。そこに、一所懸命注力していかなければ、簡単に人は育ちません。その為には、まず自分自身が改まって、おかげを頂いてゆかねばなりませんね。

★家内中が揃って、良い方向へと進ませて頂く努力を惜しまずに、たゆむことなく続けさせて頂きましたら、有難い未来が開けていくのです。良い方向へ導いていくように、信心の火を絶やさないように、おかげを蒙らせて頂きましょう。

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2021年04月03日

●『出来てくること皆おかげ』

昨日は、月例祭に併せて令和三年の勧学祭を、無事にお仕え申し上げることが出来ましたことは、真に有難いことでございました。児童・学生の方々の進学進級の御礼と、新年度も心身共に健康で、信心を基にした勉強と御用に励ませて頂いて、神徳・人徳・学徳が蒙れますように、共々にお願いをさせて頂いたことでした。

★二代教会長伊藤コウ師のお母様・ハル氏は、コウ師に師範学校へ入ってもらいたいと、強い願いを込めておられました。しかし、コウ師は、「どうあっても女学校へ入りたい!」と思われ、ハル氏のお言葉を振り切り、清水谷高等女学校へ受験の願書を提出されました。受験当日、コウ師は試験会場の門前で、受験票を忘れて来たことに気付かれ、急いで帰って受験票を持って引き返されました。しかし、数学の時間は余すところ僅かとなっており、満足な解答が出来ず、不合格となられたのでした。

★そのことについてハル氏は、「おかげや!おかげや!」とずっと仰っておられたのでした。出来てきたことは神様のお繰合せであり、ハル氏の受け取られ方は、ただ「有難いの一心」であられたのです。 翌年、コウ師は師範学校を受験され合格されました。そしてコウ師は、四年間一日の欠席もなく、優秀な成績で卒業されたのでした。コウ師はハル氏やお姉さん達から、信心をもって、どのような結果も有難く受け切ることを実践しておられる姿を見せて頂かれ、「出来てくる事は皆おかげである」という深い意味を教えて頂かれたのです。

★伊藤コウ師は、「にわとりが大地に餌を探してついばむように、喜ぶことを探して、小さいことでもしっかりと御礼を申させて頂く稽古をさせて頂きましょう」と常にみ教え下さいました。明るい心で、先を楽しみにお願いをさせて頂くことが、ご信心の上で大切です。また、思い分けの出来る賢さを身に付けることも必要です。

★出来てきたことを、おかげにさせて頂ける人間にならせて頂けます様、普段から求めて、有難い部分を見る稽古をし、喜び上手な生き方に努めさせて頂きましょう。
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2021年04月02日

●天地日月の心になること肝要なり

『金光様は喜びの道を開いてくだされたのじゃから、それをご信心申す者が、喜ばぬつらい顔をして日を過ごしてはならぬ。天地の親神様をご信心するのじゃもの、天地のような広い心にならねばならぬ。』

★教祖様は、『天地日月の心になること肝要なり』と、み教え下さっておられます。お土地は全てのものを受け入れて下さいます。汚いものでも分解して肥やしにして下さいます。大きく受け止めて下さる包容力があり、寛容であられます。日のお照らし、月の光は明るく皆に平等に降り注いで下さいます。どんな人に対してでも、神心を表に出させて頂く明るさを持ち、天地のような広く大きい心になることを願うように教えて頂いております。

★日月と書きますが、日と月の漢字を合わせますと、「明るい」という字になります。明るい心で先を見通せるように、また思い分けのできる賢さを身に付けさせて頂きますように、ということも教えて下さっているのです。人を受け入れ、足りないところを足せるようになるには、それだけ心が広くなくては出来ることではありません。

1)明き・・・先を楽しみに、明るい心で、思い分けの出来る賢さを持ち、起きてきた事をおかげにさせて頂く。
2)清き・・・悪いことを思わず、言わず、人を不足に思わず、人のことを祈ることが出来るよう、常に心を清く保ち、神心を養う。
3)直き・・・素直にみ教えを頂き、真に有難く思い、自ら進んで実践を心掛ける。

★信心にも成長段階があります。初めは赤ん坊の信心から始まり、小学、中学、高校、大学の信心を経て、一人前の真の信心へと、進ませて頂けるように、日々信心の稽古をさせて頂きましょう。どこまでも神様に対して正直に、自分自身をみ教えの鏡に照らし合わせ、改まりの生活をさせて頂きましょう。

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2021年04月01日

●「世の中にこんな方がおられるだろうか」

先月の30日に陶山氏の告別式をお仕え申し上げました。

昭和7年7才頃から親とともに参拝なさって日参と聴教に励まれ、御用に心を配られた陶山氏でしたが、3月28日に94歳7ヶ月で天寿を全うされました。

★2月13日には、医師から「危篤状態で看取りの状態に入ります。余命は1週間です。」とご家族に告げられましたが、それから6週間のお命を延ばして頂かれたのです。その間、点滴も出来られない状態でしたが、お水が頂けるようになり、ゼリーが頂けるようになって、さらには御神酒を毎日一口ずつ頂けるようになられたのでした。

誤嚥性肺炎を起こされることなく、一日一日お命を頂いて来られました。ご家族は毎日、陶山氏が入所されていた施設にお見舞いに行かれ、一生懸命神様にお縋りなさって、一日一日を陶山氏と共に大切になさって来られたのです。

★陶山氏は最期まで意識があり、会話も出来る状態であられたとのことですが、「痛い」「辛い」「苦しい」等の言葉は口に出されることなく、とにかく「嬉しい」「有難い」「有難うございます」としか仰らなかったそうです。

そのお姿に、施設の職員さんをはじめ、お医者さんや看護師さんは感心なさって、「世の中にこんな方がおられるんですねえ...」「私達もお世話をさせて頂いて、良い勉強をさせて頂きました。」と口を揃えて仰っていたということです。

お命を長らえて頂いているという有難さ、また、喜びに満ちておられるお姿、そして、ご家族が愛情深くお世話をなさっているお姿、家中がご信心をさせて頂いてお徳の積み重ねにより、このようなおかげを頂いてこられた陶山氏をご覧になって、「世の中にこんな方がおられるんですねえ...」「私達も良い勉強をさせて頂きました。」と感じられたことと思います。

★『金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。神は曲がりも折れも死にもなさらんからのう。』


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2021年03月31日

●願いをもって改まる

 在籍教師となられた加川一夫氏が、教会へお引き寄せ頂かれるようになった戦後のこと、世の中は荒れており、下駄を盗まれるという事が頻繁にあった頃です。教会へ参拝された際に加川氏も、何度か下駄の盗難に遭われました。初めは、「おかげを頂こうと思って教会にお参りしているのに、なぜ下駄が盗まれるのだろう?」と不足に思っておられたそうです。しかし、段々とみ教えを頂いていかれるうちに、「自分には新しい下駄をはく資格がない。分不相応なのだ」と悟られたのです。そして「神様からお許しがあるまでは、新しい下駄をはかない」とご修行を決め、何と自分の手作りの下駄を履くようになさったのでした。

★さらには、禁酒のご修行、禁煙のご修行と、自ら決めて神様にお願いしながら、ご修行をなさってゆかれました。遊びも一切やめるように決められ、分相応の生活に改まってゆかれますと、次第に家庭が円満になり、家の中も整ってゆくようになられたのです。ある時、妹さんが来られて、「これをお家の御神殿にお供えして下さい」と包装がしてある箱を持って来られました。それを御神殿にお供えされ、お下げされて中を開けられますと、そこには何と新しい下駄が入っていたのでした。「長い間自作の下駄を履かせて頂いていたが、こうして有難いことに神様からお許しが頂けるようになったんだなあ」と思われたそうです。そのようなおかげを頂かれた後も、手作りの下駄を履かれ、さらに加川氏は徳積みのご修行を続けられました。そして、改まっておかげを頂いてゆかれるご様子を、姉妹も近所の方々も見ておられ、お道の信心の有難いことが伝わってゆき、加川氏のお宅祭に近所の方々がお参りになられて、有難いお導きのおかげを頂かれたのでした。

★『神から金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話しにしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。』

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2021年03月30日

●神様に心を向けるということ

以前、小学校の教師をなさっているご信者が、次年度の担任決めの話し合いの時に、1クラスだけやんちゃな子が集まったクラスがあり、なかなか担任が決まらなかったそうです。そこで次回の話し合いの際に、受け持ちたい希望のクラスを紙に書いて提出するということに決まったそうです。ご信者は「どのように書いて提出させて頂けば良いか三代教会長先生にお伺いをしたいのですが・・・」とお届けに来られました。

★三代教会長先生にお伺いに上がりますと、ご信者の意向をお聞きになりました。ご本人は小さい頃からお教会で【自分が難しいことを引き受けさせて頂いて、責任をもってさせて頂くことをご修行とさせて頂きましょう】と教えて頂いておられますから「一番難しいクラスを受け持たせて頂くつもりですが、み教えを頂いた通りにさせて頂きますので、よろしくお願い致します」と仰っていたことを伝えさせて頂きました。

★三代教会長先生は「希望のクラスを書かずに、白紙で出させて頂きなさい。最終的に学年主任の先生に一任して、仰って頂いたクラスを受け持たせて頂きます、という気にならせて頂きなさい。そうしたら、何か問題が起こった時に【あの時に他の希望者がなかったので、自分が引き受けざるを得なかったから・・・】【難しい方を選びなさいと、み教えを頂いてきたから・・・】という気が起こってこない。神様が自分自身に与えて下さった、一番有難い御用であるというように、心の底から思わせて頂けば、問題が起きた時に【神様が、この出来事を通して、成長しなさいと仰って下さっている】と捉えさせて頂くことが出来るでしょう。神様の仰せ通りにさせて頂いて、一切不足の出ないようにさせて頂きます、という生き方をさせて頂いたらどうでしょうか」とみ教え下さったのでした。

★白紙で出された結果、一番難しいクラスを受け持つことに決まり、色々な問題が起こってきたそうです。しかし、責任を転嫁するようなことは一切思わずに、神様から与えて頂いたクラス・生徒、その成長を願わせて頂いて、自分自身がそのお役に立たせて頂けますように、とお願いしていかれたので、学年の終わりには「結構なみ教えを頂きまして、一切不足を思わずに有難いおかげを頂きました」と御礼届けをなさったのでした。

★人間の心というのは、どちらへ向かうかで、受け取り方が全く違いますね。神様に心を向けることで人に責任転嫁したり、不足が起こらずに済んだのです。み教えを頂く有難さがよく分からせて頂けますね。

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2021年03月29日

●神様と共に信心辛抱

 二代金光四神様はお隠れになる二日前、ご家族にご遺言を残されました。四神様のご遺言通り、金光攝胤様(三代金光様)は数え年14才というご年令で、御結界の御用を継がれることになられ、高等小学校をおやめになって、お結界で奉仕をなされたのです。明治26年から70年間にわたって84才まで御用におつき下されました。

★三代金光様は、昭和11年に東北地方のある教会の在籍教師にみ教え下さっています。『天地の事は、人の力に及びませんでなぁ。神信心には何事も辛抱することが一番大切でございます。教祖様が欲を放して神様の御取次をお受けなさって、四神様がお跡を10年、夜に昼に欲を放れてお座りなさって、早うお国替えなされてなぁ。それから何も知らぬ私が、座りさえすれば楽じゃと言うて座らしてもらいました。初めのうちは、辛うて辛うてよう泣きましたがな。親様の教えを守らしてもろうて、泣く泣く辛抱しいしいに座っとりましたら、欲しいものも考える事も、いつの間にかなくなりましてなぁ。有難うて有難うてならんようになり、なんぼう御礼を申しても足りませんのじゃ。御礼の足りませぬお詫びばかり申しております。勿体ない事であります』と仰せになられたのです。

★佐藤一徳先生はご本の中で次のように記して下さっています。「三代金光様は、初めは辛い思いをなさっておられましたが、段々と有難いお心になられたのは、神様の思し召しと受け切られ、神様におすがりさせて頂かれて信心辛抱をなさったからです。ただご自身の決心や覚悟だけでなさった辛抱でしたら、『有難うて有難うてならんようになり、なんぼう御礼を申しても足りない』お心にはなられなかったことでしょう。そこに親様のお祈りがあられ、ひたむきに神様にお縋りなさった三代金光様は、神様と共にさせて頂かれた70年間の御修行をもって、神様・親様に向かわれる姿勢を私達に表わして下さり、良きお手本を示して下されたのです。」

★信心辛抱というのは、自分の力みや強がりの辛抱では、続くことも出来ず、成就することもできないのです。「自分がする」という心がありますと、「出来るからする」とか、「出来ないからしない」とかという考えが生まれてしまうのです。また、「とても私にはできない。」「こんなこと最初から無理に決まっている」というような不成心が出てきます。どんなことも神様におすがりさせて頂き、神様と共にさせて頂く辛抱こそ、信心辛抱であり、おかげを頂いている姿なのです。まず、自分自身が神様にお願いし、不成心を取り除き、「徳と力もなく、行き届いたことが出来ず、まだまだ至らないところがたくさんある私でございますが、生神金光大神様のお取次を頂いて、天地金乃神様のお徳を頂けますように」と神様におすがりしお願いしてさせて頂けば、神様がさせて下さるのです。

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2021年03月28日

●日々、新しく頂き直す 

昭和49年のことです。二代教会長・伊藤コウ師がラジオ放送でなさった教話を、あるお寺の奥様が偶然お聴きになったそうです。その奥様は膀胱や大腸から出血する病を患っておられ、生きる気力を無くし、毎日「死にたい、死にたい…」と泣いて暮らしておられたそうです。そんな時に、偶然コウ師のお説教をお聴きになり、身が震えるほどの感激を覚えられ、「有り難い」という思いが、心の底から湧き起こってこられたというのです。そして、どうしても教会へお参りしたいと願われましたが、病気で外出することが出来ませんので、ご主人である住職さんが、代わりに阿倍野教会に参拝されたのでした。

★住職さんは、お結界に進まれ、コウ師に「うちの家内があなたのお声に感じ入りましてなあ。『もう今日から死にたいと言わない』と申しております。おかげ様で出血も止まり、身体も良くなってきております。有難うございます。ところで先生は、これまで余程ご修行して来られたのでしょう。でなければ、あんなに良いお声にはなりません。あのような良いお話も出来ませんからなあ。」と仰いました。

★するとコウ師は、「いいえ、私はご修行らしいご修行はしておりません。このお道では『此の方の行は、水や火の行ではない。家業が行ぞ。』とみ教え下さっています。私たちに与えて頂いた家業を行として、有難くさせて頂くことがこのお道の信心です。家庭や職場でそれぞれにご修行があるはずです。山にこもったり、滝に打たれて修行するのでもありません。断食をするのではなく、食物を有難く拝んで頂くご修行をさせて頂く。与えて頂いた仕事、生活そのものが修行であるのです。和らぎ賀ぶ心にならせて頂き、全てを拝んで有難く受け切ってゆく。誰もが毎日の生活の中でしておりながら、誰もが疎かにしてしまっている事を、真に有難くさせて頂くのが、このお道のご修行であるのです。」と仰せられたのでした。

★物事を通して神様が教えて下さっておられることがあります。この出来事を通して、どのように自分自身が新しく心を開かせて頂くのか、日々み教えを頂いて、見直し・聞き直し・考え直すことが大切です。この年度末、一年間の見直しをして、次の新しい年度を迎えさせて頂くにあたり、今こそ反省と改まりをさせて頂く時期ですね。しかし、本当は毎日が新しい出発をさせて頂く日々なのです。

★『信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない』とみ教え頂いております通り、新しい年が明けますと、皆お互いに旧年中のお礼を申して、さらに今年一年のお願いを申し上げますね。元日だけに限らず、一年中、そのような心持ちで、今日一日今日一日を大切に、生活させて頂くことが出来ましたら、どれ程有難い日々を過ごさせて頂けるでしょうか。毎日、元日の心を保ち続け、毎日新たな気持ちで向上し、日々新たな自分に生まれ変わらせて頂くつもりで、日々、見直し・聞き直し・考え直しをさせて頂きましょう。
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2021年03月27日

●親様にお喜び頂けることを楽しみに

 25日に、青年会学生会例会で講演をして下さった田口氏は、信心熱心なご両親に幼い頃からお導き頂かれてご信心を進められ、今日まで結構におかげを頂いておられます。ご両親は、どんな時でもコツコツと朝参りを続けられ、たとえ台風の真っ只中でも朝参りを欠かされず、その熱心な参拝のご様子は、近所でも評判になるほどであられたということです。

★ご両親は薬局を営まれ、お仕事の忙しい中でも大変熱心にお知り合いの方々をお導きなさいました。休日には、市内の自宅から近鉄電車に乗ってお導きに行かれる先方に気を使わせない様に、水筒に入れたお茶を持参なさり、時には、訪問先の飼い犬が吠えないよう、犬のおやつまで持参なさるなど、細やかに心を配られながら、親切丁寧にお導きの御用にお使い頂かれたのでした。ご両親は既にお国替えなさっておられますが、そんなご両親の霊様に喜んで頂けることを日々お願いなさりつつ、ご信心に励んでおられます。

★また、二代教会長・伊藤コウ師、三代教会長・伊藤良三師がご生前中のことですが、田口氏がお結界でお取次を頂かれた時に、人の助かりを思ってお届けをなさった内容に、満面の笑みでそのお届けを受けて下さった記憶が、鮮明に残っておられるそうです。そのご記憶から、二代教会長先生、三代教会長先生に、満面の笑みでお喜び頂けるよう、今日も田口氏は、周囲の方々の助かりを願わせて頂かれ、人の助かるお役に立つ働きに努めておられますことは、真に有難いことでございます。

★『神のことを知りたければ、親の有難いことから先に知れたら、神の有難いことも知れる。取り越して知れるようなことはない』

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2021年03月26日

●立ち聞きする心で頂く

私がまだ、小学生になるかならないかの幼い頃だったそうですが、三代教会長先生は私と二人の姉達に「なぜ私が冬でも足袋を履かないか、知っていますか?」と問いかけられたそうです。私は幼くて答えられませんでしたが、姉2人は「知りません。」と答えたということでした。

★三代教会長先生は「実は昔、日本が今のように物が豊かではなく、まだ貧乏であったころ、足袋を履かない人はたくさんいました。田舎の方へ行けば、足袋を履かない人は珍しくない。本来、裸足の方が身体が丈夫になって良いのです。御本部へ御修行に行かせて頂いた時、九州の教会から御修行に来られた方は、足袋を履いていない方がたくさんおられた。寒がりで着ぶくれしている修行生と、足袋を履かずに薄着で御修行している修行生と、食べ物でも何でも有難く頂く人と、好き嫌いを多く言う人と、どちらが幸せでしょうか。足袋も履かずにいても平気で、何でも有難く頂く人の方が健康で幸せな姿になっていかれるでしょう。」

★「また、もう一つ大切なことは、30年も40年も昔のことであったとしても、生活が本当に困窮していた時代のことを忘れてはいけないということです。どんなに結構になっても、何か一つは修行を残しておくことです。今は、衣食住の何もかもが不自由のない生活で、昔のことを思えば結構になりましたが、それに甘えていてはいけません。せめて一つや二つは、昔不自由した時代のことを残して、修行させて頂かねばなりません。生活の中で昔を忘れないように、御修行を決めて不自由を感じることにより、自ずから喜びは生まれてきます。これは、実生活から生まれてくるものであり、理屈から生まれてくるものではありません。喜びを見つけるとか、御礼を申すということは、いくら口先で言っても実際にしてみなければわからない。恵まれすぎて何も言うことがないという生活に浸っていると、自然と喜びは失われてゆきます。最初はびっくりして感激していたことでも、段々と慣れてしまいます。例えば、散髪屋に行っても散髪するだけのお金は払えますが、散髪屋や髪結いさんへ行けなかった時代があったことを忘れない為に、二代教会長伊藤コウ師は70歳までご自身で髪を結われました。そこで、私もそうしなければならないと思って、散髪屋へは行かず、自分で丸刈りにすることと足袋は履かないことを決めました。だからといって、これが一つの形と決まった物ではないし、強制もしませんが、私は生活の中に何か一つ自分の御修行として残しておきたいからこうしています。あなた達も自覚した時に、自ら決めて取り組ませて頂けばよろしい。」と有難いみ教えを残して下さったのです。

★私自身も小学6年生の頃、二代教会長伊藤コウ師が業務用のバリカンを私に買って下さいました。業務用で丈夫ですので、壊れずに現在まで45年以上も使わせて頂いております。三代教会長先生から頂いたみ教えの通り、自分で丸刈りにすることと、冬に足袋を履かないことを続けさせて頂いておりますことは、大変有難いことであるなあと改めて感じております。

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2021年03月25日

●「真心」「一心」「辛抱」

 信心の上において、「真心」と「一心」と「辛抱」が大切であると教えて頂いております。その中でも真心が大切で、教祖様は、「真一心」についての御内容を多く説いておられます。そして、そこに一心と辛抱が備わってゆくことが、信心」がより向上してゆく上に肝要であると教えて下さっています。

★教祖様は、真心について津川治雄師に、『おかげを受けるのに巧者がある。だれでもおかげをいただいたら、そのありがたいということをいつまでも忘れないようにせよ。それを忘れたら、もういけない。後のおかげはいただけない。それさえ忘れなければ、おかげは思うようにいただける。』と説いておられます。また、一心について『手で香をたいたり断食をしたり好きなものを断ったりする者がある。そういうことは行でない。迷いというものである。これからは食べられるがよい。その代わり心を固めて、どこまでも変わらず、一升の信心でも八合の信心でも続いてゆくのが大事である。神様は信心の固い者とそうでない者と、すべてご承知である。口と心が違っては、何もならない。』と仰せになっておられます。さらに、辛抱については『何事も辛抱ということが肝心である。信心においてはなおさらのこと、辛抱が弱くてはおかげが受けられない。中には、やけを起こして信心をやめる人がある。気の毒なことである。(中略)ただただ、信心の辛抱でおかげが出るのである。神様からおかげが出ると思わずに、信心からおかげが出ると思って、信心の辛抱を強くせよ。』と教えておられるのです。

★誰もが、人生に於いて様々な経験をします。色々なことを経験していく中に「神様が、このことを通して、私の本心をしっかり磨きをかけて下さり、鍛えて下さるのだ。有難うございます」とすぐにお礼が申せる信心にならせて頂くには、日々み教えを頂き、稽古をしておかねばなりません。心を正しくすることにより、身のおかげが頂けるのです。人間の心というものは、移り変わりやすく「心コロコロ」と言いますが、人間の心は感情に左右されやすいものです。先ほどまで「有難い!」と御礼を言っていたのに、ちょっとした事ですぐに「なぜこんなことが起きるのか・・・」と不足に思ってしまうのは、辛抱が弱いという事です。共々に移り変わる心を有難いの一心にしてゆくように、御修行をさせて頂きましょう。

★『欲で一心な者もあり、意地で一心な者もあるが、やはり有難いの一心でなければおかげは受けられない。』

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2021年03月24日

●了見が狭いとは  

阿倍野教会旧広前の頃、ニワトリを飼っていました。そのニワトリが縁側に上がってきて、フンを残しているのを三代教会長・伊藤良三師が見られたので、後にご結婚なさることになる愛子先生に「愛子ちゃん、ニワトリがまたフンをしている・・・」と仰いました。

★すると、奥の台所でご飯の準備をしておられた奥様が「今ご飯の準備をしていて、手が離せませんので、後で掃除させて頂きます。手が汚れますから・・・」と答えられたのです。良三師は心の中で(今してくれたらよいのに・・・まあ、私がすればよいのだが・・・)と思っておられましたら、丁度、二代教会長・伊藤コウ師が廊下を歩いてこられたのです。コウ師は廊下にあるフンを見られて、懐から懐紙を出され、さっと取られて、便所に捨てに行かれたのでした。

★コウ師が、何も仰らずに片付けられたお姿を見られた良三師は(私が一番最初に見つけたのに、わざわざ忙しい人を使おうとしていたなあ。それだけでなく、自分の思うようにすぐに対応してくれなかったら、不足を思ってしまっていた・・・)と反省されたのです。良三師は、ご自身の言動につい「これが我が強い。すなわち、了見が狭いという事です。」と反省を込めて、私共にお話しして下さいました。

★了見が狭いというのは、我が強いということです。考えが狭いとか、器が小さいとも言えます。我情我欲をお取り払い頂くには、心を広く持つことです。その為には、みんなの意見を聞いて、心が一つになるように努力する必要がありますね。思い合って、祈り合いをし、相手を立てていくことが、我の取れた姿といえるのです。

★安武松太郎師(甘木教会初代教会長先生)は、「われ良しと思う心」に対しての戒めとして多くのお歌を残しておられます。「われよしと 思うは智慧の行きづまり 怪我あやまちもそこよりぞ来る」「われ良しと思う心は 道の仇 我が身の仇と戒めてゆけ」「われ良しと思う心を仇として 戦いて行け 日ごと夜ごとに」
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2021年03月23日

●我を放して自分を生かす

 このお道は、全てのものを生かしていく道だと教えて頂いております。「全てを生かす」とは、「自分を生かす」・「物を生かす」・「人を生かす」・「土地を生かす」・「家を生かす」・「時間を生かす」等々・・・のことで、それらを生かしていくことによって、生き生きとした働きに繋がってゆくということを教えて頂いております。

★学院へ行かせて頂いた時に聴かせて頂いたお話です。ある学院生の方が前庭で煙草を吸い、その灰を地面に落としておられました。それを見ておられた先生が、お叱りになるわけでもなく、ご無礼だと責めるわけでもなく、ただ一言「あなたの灰皿は大きいですなぁ。」とおっしゃったということです。その一言で、その学院生の方は、自分が大変申し訳ない事を長年続けてきたことを悟られたのです。「天地全体が神様のお体である、普段何気なくしている事が神様のお体を汚し、自身がめぐりを積み、お徳を落としてしまう事に繋がっていたのだ。」という事に気が付き、改まらせて頂かれたのでした。

★また、金光教学院では洒掃をさせて頂く時間があります。ある学院生が地面に落ちた桜の花びらをほうきで掃いていました。しかし、掃いても掃いても落ちてくる桜の花びらを見て、どうせ落ちるんであれば早く落としてしまえば、掃除も早く済むと思ったのでしょう。桜の木を揺すり始めたのです。それを、見られた学院の先生は、学院生に「なんと心ないことをするのですか。花びら一枚一枚にも命があり、その命を愛でる、慈しむ心が尊いのです。」と注意されたというお話でした。散りゆく花びらの一枚一枚にも生命の輝きがあり、私たちの目を楽しませてくれるのです。

★生かして頂いていることの意味や尊さを知り、それぞれの命に豊かな心や慈愛の心を持たせて頂きますと、その命は生き生きと働くことができるのです。それは、自分を生かし、人を生かし、物を生かし、すべてを生かし、生きた働き、生きた存在となってゆくのです。それぞれに頂いている慈愛の心(神心)を大きくし、すべてを包み込める器を持たせて頂くために、み教えを頂いて自身の至らない部分を改め、我を放して、了見を広げさせて頂きましょう。

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2021年03月22日

●神様のご領域のこと  

大正15年10月28日、初代教会長先生は「おかげやでえ、おかげやでえ」というお言葉を残されて、お国替えになられました。そのご意味は「私が8年も生命を延ばして頂いたのは有難いおかげです。そして、いよいよお国替えするということは、これからより一層に御霊として働かせて頂けるということです。これは伊藤の家にとっても、阿倍野教会にとっても、信奉者一同にとってもおかげですよ」と、これまでのことと、これから御霊となることを、おかげの中での出来事と、言い残されたのだと悟らせて頂きます。

★しかしそのような時に、二代教会長先生に対し、他の方々は「先生は歳が若いのだから他の方面で生きていきなさい…」「金光教の先生でも早死にしますか…」「子供がなくてよかったですよ。他に御縁を頂いてやり直しなさい」と、個々の立場でおっしゃるのでした。

★後になって、コウ師が述懐なさっておられましたのは、「夫が亡くなって淋しくない、悲しくない妻がおりますか。悲しいに決まっている。辛いに決まっている。しかしそこを生神金光大神様・天地金乃神様におすがりをして一日一日助けて頂いてゆくから、私も霊様も助からせて頂けるのです。私が取り乱していては霊様も助かりません。そういうことになって申し訳ないことです。なんとしてでも、ご信心を基にしておかげを頂いていかねばならんと思い、一生懸命おすがりさせて頂きました」と仰っておられたことでした。

★命をお授け下さったり、お引き取り下さるのは、神様のご領域のことであり、人間がどうこう出来ることではありません。家族の身代わりになって、お国替えになる霊様もあられますから、その深い深いご意味は、私達には到底計り知ることが出来ません。しかし後に残った者が、信心を実意丁寧にさせて頂き、後々が健康で繁盛させて頂けるように、役目を全うさせて頂けるように、正しい方向へ家族親族を導いてゆけるように力を尽くしていくことが大切です。今日頂いている命に御礼を申し、命の元である神様のお働き、霊様のお働き、また親様のお働きに感謝しながら、精一杯お役に立たせて頂けることを願わせて頂きたいと思います。

★『ご信心しておるのに死んだりすると、おかげがなかったと言うて、信心をやめる者があるが、信心しても死ぬる者は、うちの者の身代わりになっておることがあるから、後々の者がご信心して達者で繁盛せぬと、せっかくの身代わりになった者を犬死にをさしたことになり、なお不幸せが続くことがあるぞ。うちの者が難に負けぬご信心をすることが第一ぞ。』
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2021年03月21日

●神様に心を向けて、徳と力を受けてゆく

 昨日は、天候気象の上にも有難いご都合お繰り合わせを頂きまして、春季霊祭を無事にお仕え申し上げることが出来ましたことは、真に有難いことでした。教徒・信徒が共々に真心を込めて、霊神様にお礼を申し上げ、霊徳高くなられ、ご安心なさいますように、御祈念させて頂きますことは、真に有り難いことでございます。

★教祖様はご生前中に『金光大神の姿に目をつけないようにせよ。金光大神の衣服や形におかげはない。金光大神の霊(みたま)の働きにおかげがあるのである』とみ教えを残して下さっておられます。ですから、お結界でお届けをさせて頂く時に、どなたの先生がお座りになっておられましても、生神金光大神様がお座りになっておられるという心でお届けをさせて頂いております。有難いことにお手代わりの先生の後ろに生神金光大神様がお座り下さっておられますから、金光大神様のお取次ぎを頂くということに変わりはございません。

★私たち一人一人も尊い分け霊(わけみたま)を頂いており、神様の一部分を頂いてこの世に生まれてくると教えて頂いております。御霊の働きが生き生きとさせて頂けるようにご修行させて頂き、また信心の稽古に励ませて頂くことで、有難い御霊を生涯かけて磨きに磨いて、徳高きものにさせて頂くことが大切なのです。

★誰もが御霊を頂いている尊い存在ですから、同じようにおかげを頂けることは間違いありません。ただし、『信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ』とみ教え頂いておりますように、私達が神様の方へ向かわせて頂きましたら、有難いお徳も力も受けさせて頂けるのです。反対に、神様に背を向けた生活をしておりましたら、お徳も力も受けることは出来ません。おかげはお徳についてくるのです。ですから毎日お徳を頂く為のご信心をさせて頂かねばなりませんね。

★また『わが心でわが身を救い助けよ』ともみ教え頂いております。生かして頂いておりながら、人としての尊い本心を失う生き方にならないように、させて頂かねばなりませんね。その為には御恩を知って御恩に報いる生き方、そして実意丁寧、真心のこもった生き方をさせて頂くことが大切です。さらに『信心は親に孝行するも同じこと』とみ教え頂いております。親ご先祖を大切にする生き方は、自分を大切にする生き方に繋がっているのです。

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2021年03月20日

●心のおかげ 

あるご信者は、喘息で8年間も苦しんでおられ、2階への階段を上がることも出来ず、家業である商売の手伝いも出来ず、ご主人を頼っておられました。

★二代教会長・伊藤コウ師から、発作が出た時の症状を尋ねて頂かれた時には、「鼻も口も塞がれたまま、息をしなければならない様な状態です・・・」とおっしゃったということです。伊藤コウ師は、大変気の毒に思われ、「なぜ8年間も、そのような苦しい病気を持ったまま放すことが出来ずにおられるのか、今日は、それを考えさせて頂く機会にしましょう」とみ教え下さり、ご婦人は、これまでの自分を信心の目で、真剣に振り返られたのでした。

★そして、「先生、家の中で一番悪いのは私でございました。私は、『家族の為、商売繁盛の為に自分だけが教会に参拝している。自分は信心しているのに、主人が悪い。あれが悪い、これが悪い・・・』と、人を責め立てて苦しませ、いつも不足の心に満ちておりました。これが、私の病気の元でございました。今日を良い機会として改まらせて頂きますので、何とぞよろしくお願い申し上げます。」と、お詫びのお届けが出来られたのでした。

★伊藤コウ師は、「そのような心になられたことが、大きなおかげですよ。『氏子が、このように結構に改まりの心を持たせて頂けるようになりました。有り難うございます。どうぞ、喘息の発作をお取り払い頂きますように』と、私も共にお願いさせて頂きますよ」と、お話し下さったのでした。

★その翌日から、喘息の発作は治まり、再発することなく根切れのおかげを頂かれたのでした。商売も手伝えるようになって、ますます繁盛なさり、また、以前はご主人から、「信心してもお前の様に心が刺々しいなら、信心なんかしたくはない。」と言われていたのが、ご主人も共に参拝して頂けるようになられたのです。

★『心のおかげが大事じゃぞ。心のおかげを先に受けたら、身のおかげは自然に受けられるのじゃ』(二代金光四神様のみ教え)
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2021年03月19日

●真心からの改まりを

 初代教会長先生の御在世中の頃のお話です。3年間も声が出なくなってしまわれた方が、お導き頂かれて参拝なさいました。「どうあっても声が出ますように」と初代教会長先生にお届けされますと、「一週間でおかげを頂きましょう」とみ教えを頂かれたのでした。

★それから、ちょうど一週間目の晩のことです。休ませて頂いておりますと、いきなり大雨が屋根を叩き付ける音がしました。その瞬間、布団の中で「雨や!」と声を出させて頂けたのです。「なんと有難いことだろう!み教えを頂いた通り、日を切ってご祈念を頂いた、その日までに声が出させて頂けた!明日の朝、御礼参りに行かせて頂こう」と思い、そのまま眠りについたのです。すると翌朝には、もう声が出なくなってしまっていたのでした。

★その旨を初代教会長先生にお届けされますと「どうして声が出たその時に、せめて布団から起き上がってご祈念させて頂いたり、服を着替えて戸口に出て、教会の方を拝ませてもらったりと、真心が表せなかったのですか?『朝になったら、お参りさせてもらおう・・・』というのは、確かに一般的な考え方のように思えますが、ご信心させて頂き、み教えを頂いていたら『どのようにして、神様に真心を向けさせて頂くか』ということを、毎日教えて頂いているでしょう。おかげを頂いて『ああ、良かった・・・』で終わってしまっていては、神様に申し訳ありません。神様が『あなたは、まだ真心からの信心になっていませんよ』と教えて下さったのです。次におかげを頂くのは、今度は時間がかかりますよ。一からしっかり改まらせて頂きましょう」とみ教えを頂かれたのでした。

★その方はよく理解され、その後は改まりの信心を進められました。ある日、天王寺公園で友人と別れ際に、「さようなら」と声が出させて頂けたのです。今度はさっそく電車に飛び乗って、御礼参りが出来られたのでした。

★神様にお願いをさせて頂く時には、一心に神様に真心を向けさせて頂き、どのような改まりを進めさせて頂くかを真剣に考え、実践させて頂くことが大切です。教会に足を運ばせて頂き、数多く参拝させて頂いて日に日に改まりが進んでゆくということも、神様に真心をお供えさせて頂くことになるのです。

★『お上にでも、願い方や手続きが違うておれば、願意はわかっておっても却下になるようなもので、神も、願い方が悪いとお聞き入れがないぞ、と金光様は言うてござった。わが身へは引きやすいものじゃが、横着や便利勝手ばかり考えてはならぬぞ。』

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2021年03月18日

●身に頂いているお徳を減らさない為に

16日は婦人会例会が開催され、井氏より有難いおかげ話を聴かせて頂きました。

★井氏のお母さんは、二代教会長伊藤コウ師より「自分の子供と言いますが、子供は神様からお預かりした大切な御氏子です。だから自分の思う通りにしようとしてはいけません。お願いして育てさせて頂くのです。子供がこの世に生を受けた時、すでに神様から大きなお徳を頂いて生まれてきます。多くの人は成長するに従って、そのお徳を減らしていってしまいがちです。そのお徳を減らさないように育てさせて頂くのが、親にならせて頂いた者の責任です。お徳を積むと言っても、お世話になるばかりで、なかなか積めるものではありませんが、子供の時からお徳を積ませて頂く事と、頂いたお徳を減らさないことを、心掛けさせて頂くことが大切です。」とみ教え頂かれました。

★そこで、お母さんは子供達に、頂いたお徳を減らさずお役に立つ人間に成長するように、小さい頃から家庭に於いて様々な御用を教えられました。井氏は、幼児期から配膳や食後の食器のお運び、洗濯物をたたんだり、掃除や雑巾がけのお手伝いを、遊びの延長で教えて頂かれました。少し大きくなると、食器洗いや食材の下ごしらえが出来るようになり、小学校五年生になると簡単な料理が出来、中学生になる頃には、二人の弟さんの弁当を作るようになられました。掃除も、朝一番と夜布団を敷く前の二回、そしてお風呂やトイレ掃除、庭の手入れ、さらには障子・襖張り、網戸の張替え、ペンキや壁土塗り等、様々な事を教えて頂かれ、何でもさせて頂けるようになられたのでした。ですから、学校でも職場でも、困ったり辛い等と思われたことは、殆どあられなかったそうです。

★短大卒業後は、家業を継がれたのでしたが、卒業して二ヶ月経ったある日、短大の先生から「学校を代表して、ある会社の入社試験を是非受けてくれませんか?」との依頼を受けられました。その会社名を聞かれたお母さんは、「自分の子供が、将来この会社に勤めさせて頂けたら…」と、まだ生まれる前から、神様にお願いなさっておられた会社だったそうです。早速、お取次ぎを頂かれて、受けさせて頂かれますと、百倍を超える競争率の中、無事合格のおかげを頂かれたのでした。

★小さい頃より、自ら求めて家のお手伝いや、弟さん、妹さんのお世話をなさってこられたお徳により、就職のことも結婚のことも、何もかも思う以上に、おかげを頂いて来られたということが、よくわからせて頂きます。
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2021年03月17日

●何事も「させて頂く」という心

 リウマチを患っておられた金光キクヨ姫様は、「リウマチの私が『病気だからできない』と言うてしまえばそれだけのこと。そこをお願いして掃除させて頂けた時の喜びは、元気なものが掃除させて頂く喜びより何倍の喜びかわかりません。神様におすがりして、させて頂きたいという願いを立てれば、掃除の仕方まで神様は教えて下さいます。御用させて下さいます」と仰せになりました。リウマチの痛みで、雑巾を絞ることが出来られなかったので、前の晩に濡らした雑巾を竿にかけておかれ、翌朝には程よく湿った状態になった雑巾を使って、お掃除をしておられたそうです。

★何事も「する」という心でしておりますと、「これはする」、「これは出来ない」ということが出てきます。「出来ない」理由を探して、あきらめて投げ出せば、どのようにさせて頂けば良いか、という事も考えませんね。「させて頂く」という心にならせて頂きますと、神様に「させて頂けますように」とお願いし、また「どのようにさせて頂けば良いでしょうか?」と、神様にお伺いさせて頂くことができ、そこから工夫が生まれ、練り出すことができてゆくのです。

★家庭に於いては、親が子供の真心を作ってゆくのです。家庭環境を作っていくのは親の役目ですから、それを怠りなくさせて頂くことは大変大切なことです。幼小の頃からみ教えを頂き、手を合わせて拝ませて頂く稽古をさせて頂いておりますと、自ずと真心が育っていきます。親は神様から有難いお役目を与えて頂いています。そのお役目を喜んでさせて頂くことが、神様のお喜びお楽しみであると仰せになります。

★さらには、家族の健康に繋がる食事を作ることや掃除も、信心を元にした生活をさせて頂くところに、家庭の者の真心が育ってゆくのです。家事も「させて頂く」という心で日々の稽古に励ませて頂くことにより、段々と工夫ができてゆきます。何事も「させて頂く」という心でお願いして、取り組ませて頂きましょう。

★『女の信心が、神様のお楽しみお喜びである。懐妊の時、心を改め磨き、真心の子供を産んで養育し、日々食べ物を取り扱い注意不注意によりて、病気のできることもあり病気を除くこともあり。子供の間は母親が子供の真心を作るのである。また、着物の洗濯をするのも子供の健康のためである。この役目を油断なく注意する氏子を見て神は楽しみ喜ばれる。ここに母親の大責任がある。神の前に参りて自分の思うことを頼むばかりが信心ではない。神に参らない時に信心することがたくさんある』

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2021年03月16日

●「神様が好きになる」という境地

教祖様は『信心せよ。信心ということは、しんはわが心、じんは神なり。わが心が神に向かうをもって信心と言うなり。恩徳の中におっても、氏子、信なければ、おかげはなし』と仰せになっておられます。

★二代教会長伊藤コウ師は「神様に心が向いております時には、信心になっております。しかし、神様に心が向いておらない時(人や物事に心が向いている時)には、信心にはなっておりません。」と端的にみ教え下さいました。物事や人に心が向いておりますと、それに囚われてしまって心が乱されてしまいます。人間の考える範囲というのは狭いもので、人が言うことはその時の都合によって変わりますし、その時代の価値観によっても判断は変わってきます。しかしながら、神様が氏子にそれぞれに願って下さっているお心は、どこまでも変わられることはありません。神様のお心を目当てにさせて頂けば、心は乱されることなく、迷うことがありません。

★三代金光様が御神勤なさっておられる時代のことです。ある学院生が神習(金光様が御神勤下さるお広前で静座してそのお姿を拝み、御神勤を習わせて頂くこと)をさせて頂かれました。そして、神習を終えられて金光様のお結界に進まれ「本日は一日神習をさせて頂きましたが、足が痛いばかりで神様を有難いと思う事が出来ませんでした。」とお詫びを申されました。すると、三代金光様は「神様が好きにならせて頂かれたら良ろしいでしょう。」と仰せになられたとのことです。

★神様が好きになるというのは、ただ好むというような意味だけではないのです。自分の生命が喜ぶ生き方、そのご慈愛にお応え申し上げる生き方をさせて頂くのです。神様あっての自分である、神様の御慈愛の中で生かされて生きており、おかげを頂き続けているという事を自覚し、有難くて御礼を申さずにはおられないという心境なのです。共々に「神様が好きになる」という境地にいかせて頂けますよう、日々日参と聴教に励み、稽古させて頂きましょう。そうすれば、自ずと何事も喜んでさせて頂けるようになり、お参りが有難くてたまらず、み教えを頂くことが有難くてたまらず、ご恩返しの働き(御用)が好きになって、本物の信心をさせて頂けるのです。
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