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2021年02月24日

●祈りながら待つ 

三代教会長・伊藤良三師があるご婦人の信者に、「あなたは、どのような経緯でお参りなさるようになられたのですか?」と、お尋ねになりました。そのご婦人は[私は結婚してから主人に信心を教えてもらいました。主人は私に「参れ」とは言いませんでした。主人が朝参りから帰っても、私はまだ寝ている日々が続いておりました。寒い冬でも朝参りから帰った後、火鉢の傍で新聞を読みながら私が起きるのを待ってくれていました。「すみません、今起きました」と声を掛けると、主人は小言一つ言わずにニコニコとしてくれていました。これでは主人に申し訳ないと思うようになり、だんだんと早起きさせて頂けるようになって、主人と一緒にお参り出来るようになりました。]と、お話し下さいました。良三師はそのお話をお聞きになって、辛抱強く、祈りながら待つご主人の姿勢に感心なさったということです。

★論語の中に「君子は泰(ゆたか)にして驕らず、小人は驕りて泰(ゆたか)ならず」と残して頂いています。これは「良くできた人は自信があって落ち着いている。そして傲慢なところがない。反対に人間の出来てない人は、いかにも偉そうに傲慢だけれども、どことなく落ち着きがない。」と一般的に訳されています。江戸時代の思想家・伊藤仁斎は、「泰(ゆたか)とは、己はこの点に於いて人より優れている、ということをみだりに表に表さない。己を慎んでいくから自ずから豊かな伸び伸びとした姿になる。また人を先に立てるから驕るということがない。物事がよく分かっていない人は、自分にちょっとでも優れたところがあると、自らの能力を人に見せびらかしてつい傲慢になる。」と記しておられます。

★相手のことを祈る、立てるということは、自分の心を豊かにさせて頂き、受け物を大きくして頂けるのです。相手を憎んだり恨んだりせず、どこまでも慈愛の心でもって慎み深く接することが必要です。そして、相手のことを諦めずに願い続ける稽古が大切です。

★『此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みなもそのとおりにおかげが受けられるぞ』
【金光教阿倍野教会 日参と聴教 おかげは足運びにあり】

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posted by 金光教阿倍野教会 at 05:39 | 令和3年の「み教え」