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2020年06月16日

●自分自身の心次第で、おかげはいくらでも頂ける

 先日、あるご信者が「このことは初めてお話しさせて頂くのですが、13年前の春季霊祭の時に、有難い体験をさせて頂いたことがあります。いつもと同じように、用意をして出発したつもりでしたが、お広前に御祭典の1時間前に到着したのです。椅子に座って御祈念させて頂きながら、御祭典を待たせて頂きました。御祭典がお仕えになられ【有難いなあ。亡くなった母は熱心にご信心して下さったからなあ。私は、どのようにさせて頂いたら喜んでもらえるだろうか・・・】と考えながら御祭典を拝んでおりました。そして、目を閉じた瞬間に、前におられるご信者さん達が、横に退かれて道を開けられ、御霊殿のところから、初代教会長先生・二代教会長先生・三代教会長先生がお出ましになったのです。お広前に進んでこられたのですが、その後ろに私の母親が生前中の元気な姿で、子供のように嬉々として喜んで走り回っておりました。ハッと目を開けましたら、いつものように御祭典が仕えられているのですが、目を閉じますと、またその光景を見させて頂けるのです。自分の母親が、飛び回るように動いて私の傍まで来て、周りを一生懸命に喜んで駆け巡っておりました。

★私は、このように親に守って頂いて、結構に生活をさせて頂いているのだ、ということがよく分からせて頂きました。御祭典を仕えて頂けるということは有難いことで、その心になって御祭典を拝ませて頂きましたら、あのように親の有難い姿を見せて頂いて、誠にもったいないことでありました。その光景は忘れられません・・・」とお話し下さいました。

★皆それぞれに、現在がおかげを頂いている真っただ中です。物事は、自分の力だけで全てに行き届いて出来ることではありません。神様・霊様にお守り頂かないことには、立ち行かない事ばかりであります。教祖様のお取次のお徳、生神金光大神取次の道の御比礼に変わりはありません。歴代金光様のいつのご時代も、御比礼を頂ける中身に変わりはないのです。ただ、自分自身が、本当にその心にならせて頂けるかどうか、というところに違いが出てくるのです。

★『祈りてみかげのあるもなきも、わが心なり』

【金光教阿倍野教会 日参と聴教 おかげは足運びにあり】

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posted by 金光教阿倍野教会 at 05:59 | 令和2年の「み教え」