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2019年02月01日

●不自由を行とする

私が幼い頃、三代教会長先生は私と二人の姉達に「なぜ私が足袋を履かないか、知っていますか?」と問いかけられたそうです。私は幼くて答えられませんでしたが、姉2人は「知りません。」と答えたということでした。

★三代教会長先生は「実は昔、日本が今のように物が豊かではなく、まだ貧乏であったころ、足袋を履かない人はたくさんいました。田舎の方へ行けば、足袋を履かない人は珍しくない。本来、裸足の方が身体が丈夫になって良いのです。

御本部へ御修行に行かせて頂いた時、九州の教会から御修行に来られた方は、足袋を履いていない方がたくさんおられた。寒がりで着ぶくれしている修行生と、足袋を履かずに薄着で御修行している修行生と2つに分かれる。

食べ物でも何でも有難く頂く人と、好き嫌いを多く言う人と分かれる。どちらが幸せでしょうか。足袋も履かずにいることが平気で、何でも有難く頂く人の方が健康で幸せな姿になっていかれる。

★また、もう一つ大切なことは、30年も40年も昔のことであったとしても、生活が本当に困窮していた時代のことを忘れてはいけないということです。どんなに結構になっても、何か一つはそのために修行を残しておくことです。

今は衣食住何もかも不自由のない生活で、昔のことを思えば結構になりましたが、それに甘んじていてはいけません。せめて一つや二つは、昔不自由した時代のことを残して修行させて頂かねばなりません。それが、私の方針です。

信心生活の上でいかにして喜ぶか。生活の中で昔を忘れないように、御修行を決めて不自由を感じることにより、自ずから喜びは生まれてきます。これは、実生活から生まれてくるものであり、理屈から生まれてくるものではありません。

喜びを見つけるとか、御礼を申すということは、いくら口先で言っても実際にしてみなければわからない。恵まれすぎて何も言うことがないという生活に浸っていると、自然と喜びは失われてゆきます。最初はびっくりして感激していたことでも、段々と慣れてしまいます。

例えば、散髪屋に行っても散髪するだけのお金は払えますが、散髪屋や髪結いさんへ行けなかった時代があったことを忘れない為に、二代教会長伊藤コウ師は70歳までご自身で髪を結われました。そこで、私もそうしなければならないと思って、散髪屋へは行かず、自分で丸刈りにすることと足袋は履かないことを決めました。

だからといって、これが一つの形と決まった物ではないし、強制もしませんが、私は生活の中に何か一つ自分の御修行として残しておきたいからこうしています。あなた達も自覚した時に、自ら決めて取り組ませて頂けばよろしい。」と有難いみ教えを残して下さったのです。

★私自身は幼い頃にこのようなみ教えを下さったことは覚えてもいませんが、その時々に教えて頂いてきたことが頭の隅に残っているのでしょう。今日まで自分で丸刈りにすることと、足袋を履かないことを続けさせて頂いておりますことは、大変有難いことだったのだと改めて感じております。

【金光教阿倍野教会 日参と聴教 おかげは足運びにあり】

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posted by 金光教阿倍野教会 at 06:37 | 平成31年の「み教え」