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2021年02月03日

●了見が狭いとは

 阿倍野教会旧広前の頃、ニワトリを飼っていました。そのニワトリが縁側に上がってきて、フンをするのを三代教会長・伊藤良三師が見られたので、後にご結婚なさることになる愛子先生に「愛子ちゃん、ニワトリがまたフンをしている・・・」と仰いました。すると、奥の台所でご飯の準備をしておられた奥様が「今ご飯の準備をしていて、手が離せませんので、後で掃除させて頂きます。手が汚れますから・・・」と答えられたのです。良三師は心の中で(今してくれたらよいのに・・・まあ、私がすればよいのだが・・・)と思っておられましたら、丁度、二代教会長・伊藤コウ師が廊下を歩いてこられたのです。コウ師は廊下にあるフンを見られて、懐から懐紙を出され、さっと取られて、便所に捨てに行かれたのでした。コウ師が何も仰らずに片付けられたお姿を見られた良三師は(私が一番最初に見つけたのに、わざわざ忙しい人を使おうとしていたなあ。それだけでなく、自分の思うようにすぐに対応してくれなかったら、不足を思ってしまっていた・・・)と反省されたのです。良三師は、ご自分の言動に対して「これが我が強い。すなわち、了見が狭いという事です。」と反省込めて、私共にお話しして下さいました。

★了見が狭いというのは、我が強いということです。考えが狭いとか、器が小さいとも言えます。我情我欲をお取り払い頂くには、心を広く持つことです。その為には、みんなの意見を聞いて、心が一つになるように努力する必要がありますね。思い合って、祈り合いをし、相手を立てていくことが、我の取れた姿といえるのです。

★佐藤照師は「教祖様は『信心は家内に不和のなきが元なり』と教えられておるが、これだけ守るのでもなかなか辛抱せにゃできん。(略)みな良い事ばかり思っていても、思い方の寸法が違うから、合わそうと思うたら、辛抱が要る。それで自分だけを通そうとすると、どうしても合わぬことになりますなあ。それをこちらから、向こうに合わせていくようにしたら、合うようになるでしょう。合わすようにするいうたら、どうしたらよいか。それは向こうの足らぬところを足していくとよい。大抵の者は、その足していくいうことを思うておらぬ。それから信心するものは、人を受け切るくらいの心でおらねばならぬ。誰でも受け切っていくくらいにならねばならぬ。受けるというたら、力が大層要ります。相撲でも受ける方がどれだけ力が要るかなあ。そのように受け切るのには力が要るが、そういう力は辛抱せねばできてこぬから、神様のおかげを頂いて、辛抱のお徳を蒙らせてもらうのです。年寄りと若い者というたら、知恵分別が合わんこともありましょう。それを自分の思うとおりにばっかりしようとしたら、立ち行きはせぬ。みんな世話になり合うてこそ、立ち行くのでしょう・・・」とみ教え下さいました。

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posted by 金光教阿倍野教会 at 05:58 | 令和3年の「み教え」