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2019年10月28日

●稽古をさせて頂く方向へおかげを頂く

 三代教会長先生が中学生の頃、二代教会長伊藤コウ師に「信心して身に徳を受けるということは、およそ損なことばかりしていたらよいのですね?」とお伺いなさったそうです。コウ師は「そうや。大体あんたが見て目先で考え、損やなあと思うことをしていたら、お徳を積む事になりますねや」と仰られたそうです。三代教会長先生は「当時の自分の小さな頭ではそのように思えた。しかし、目先の利益を考えたり損得勘定ばかりしていたら、信心してお徳を積ませて頂くということは、到底出来ることではないなあと、中学生時代の自分にも、段々と分からせて頂けるようにならせて頂いた。早くから間に合うように準備をさせて頂くこと、お徳を積ませて頂くことを教えて頂いていた・・・」と後に述懐しておられました。

★二代教会長伊藤コウ師は『朝早く起きて、ご飯を食べて学校に行かせてもらうことだけをしていては、あかんのや。庭を掃かせてもらうとか、廊下を拭き掃除させてもらうとか、何か御用させてもらいなさいや。そして学校が終わったら、寄り道せずにすぐ帰って来て何か御用させてもらいなさい』とみ教え下さいました。勉強も時間の使い方も工夫して、集中して短時間で能率の上がるように稽古させる、という方針であられたのです。窮屈なこと、しんどいことに思えておられた三代教会長先生も、それを段々と稽古なさっているうちに、人のお世話をさせてもらうことや、人が助かって頂くことを楽しみにさせてもらえるようになっていかれたのだそうです。十代の頃から稽古をさせて頂かれたので、そのようにおかげを頂かれたのです。

★『お広前を遠ざかるは、信心の抜け始めである』自分自身を見つめ直し、み教えを頂き直して、自分の心を磨いていくことが、面倒だったり窮屈のように思ったり、その時間が惜しいという気になってしまい、自分の都合を先に立てておりますと、めぐりをお取り払い頂いて、お徳を積ませて頂くことが出来なくなります。人間は稽古をさせて頂いている方向へ上達をしていくのです。年齢を重ねたから辛抱強くなっていくとか、我情我欲が取れていくという話ではありません。稽古をさせて頂かねば、そうはならないのです。稽古をしていない人は、何歳になろうが、いつまで経っても人に助かって頂く喜びや、御用奉仕させて頂いてお徳を積ませて頂く有難さは分かりません。自分の心を磨く稽古を、日参と聴教を通して、共々におかげを蒙らせて頂きたいと思います。

【金光教阿倍野教会 日参と聴教 おかげは足運びにあり】

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posted by 金光教阿倍野教会 at 06:00 | 令和元年の「み教え」