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2016年10月24日

●信心のある者とない者の違い

昭和28年の1月の事です。あるご信者のお宅祭に近所の方が来られて、二代教会長伊藤コウ師に「私は律儀に真っ直ぐに生きてきましたのに、難儀な目に遭っています。大砲の弾を作る為、国に金目の物もすべて納め家には何もなくなりました。恩給も取り上げられてしまいました。

また二人の息子も戦死してしまいました。ある神様に息子の無事を祈願していましたが、戦死した4か月後に通知が来たのです。正直者ほど馬鹿を見ます。つまらない世の中ですなあ。」と鬱積していた思いを打ち明けられました。

★二代教会長先生はその方のお話を聞かれて、「この方は気の毒な方だなあ。私も信心していなかったら、こういう考え方や生き方をしていただろうな。」と思われたそうです。「確かに、息子さんが亡くなられたという辛さは察するにあまりあることです。

しかし公報が遅れて息子が生きていると思えた4ヶ月、心が救われていたでしょう。4か月も時間を与えて頂き、息子が生きていると思って生活させて頂けたことは有難い事であったと私だったら思わせて頂きます。私たちは、天地の間に住まわせて頂いているけれども、生きている時だけ天地のお世話になっているのではありません。

死んだ後も御霊として、天地のお世話になって生き続けるのです。その信心をしっかり握った人は、たとえ愛しい人が亡くなったとしても、うろたえることなく信心が続き、おかげを頂く道を歩ませて頂けます。信心がなければ、神様を逆恨みしておかげを落としてしまうことになりかねません。

たとえ財産を失う様なことがあっても、神様からお預かりしたものを天地にお返ししたということ。健康ならその健康な体を頂いていることにお礼申して、一から働かせて頂く心になればよいのです。自分の人生を豊かにし、おかげを頂く方向に進ませて頂けるかどうかは、自分の心次第なのです。」と仰いました。

★いかなる環境であっても、毎日を暗闇の中で苦しんで生きるのか、明るい喜びに満ちた生活にならせて頂くかの違いは、御恩を分かるか分からないかの違いなのですね。

【金光教阿倍野教会 日参と聴教 おかげは足運びにあり】

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posted by 金光教阿倍野教会 at 05:30 | 平成28年の「み教え」